昭和四十五年九月四日
x 御理解第六十八節
「神参りをするに、雨が降るから、風が吹くから、えらいと思うて はならぬ、その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃ、
如何に有難そうに心経や大祓を上げても、心に眞が無ければ、神 に虚言を云うも同然じゃ、拍手も無理に大きな音をさせるには及 ばぬ、小さい音でも神には聞こえる、拝むにも大声を出したり、 節をつけたりせぬでも、人にものを云う通りに拝め」
信心には、辛抱する事が一番大切でございますと、三代金光様のお言葉です。 勿論、身に徳を受ける修行じゃと仰る。
自分の気分のよか時には、とても有難い御祈念が出来たり、自分の気分の良い時には、云うなら、有難いお参りが出来る、気分が悪い時には、御神前に出ても、何とはなしにスッキリしない、
お参りもしたくないと、ゆうような時もあります。
そうゆう私は、御神前に出ても、気分がスッキリしないとか、又は今日はどうもお参りが、おっくうであると、そうゆうところを大事にせよとゆう事だと思う。
そこで私は、求められるものは、一心だと思います、こゝのところだけは、どんな事があっても、誰が何と云うても、これだけはといったような、ひとつの心と、とゆうものが出てこなければ、出来んと思う。
一心が出ないと、そこのところは、いわゆる楽な方へ妥協致します。 今日は雨が降りよるから、今日はもう風が吹きよるから、いわゆる雨風のせいにしてしまう。
ですから、そうゆうところを大切にする、その為には私共がね、一心を出さなければならない、これだけは、人間生身を持つておる事ですから。
仲々、あれもこれもと云うような訳にはいきません、段々そこを目指さなければならんのですけれども、仲々出来ません。
先日、お書物を読ませて頂きよりましたら、泉尾の三宅先生が云うておられる事には、自分は、ベストを尽くすとゆう事が本当なんだけれども、仲々出来ん、自分はどこまでもベタ―だと、
ベストとゆう事は、いわゆる根かぎりの事でしょうねえ、ベタ―とゆうのは、そこ迄はいかないけれども、この事だけには一心を表したい、一心をかけていくと、こうゆう意味でしょう。
皆さんこゝんところがね、出来なければいけないと思う。
私共でもそうです、仲々例えば、取次者として一番素晴らしい、私共に対する手本は、何と云うても三代金光様であったと、こう思います。 仲々、それは二日か三日なら出来ますけれども、これを一生をとおして、とても ひとつの手本ではありますけれども、仲々出来ない、出来ないと云うて、それに一歩でも近づかせて頂こうゆう、気持は有りましても、仲々出来ん。
そこで せめて、これだけの事はさせて頂かねば、とゆう事に一心をかける、例えて、私で云うなら、朝の四時の御祈念だけは、どんな事があってもと、こゝのところだけにはと、矢張り一心をかけていく、これは、雨が降ろうが照ろうが、そうゆう事はもう言い訳にはならん、問題にはならん、問題にしてはならない。
私は信心にはね、そうゆうものが、それぞれの信心なりに、あらなければいけないと思いますねえ、 皆さんこれだけは、といったようなものが工夫されているでしょうか、そうゆうものがあるだろうか。 只、お参りの出来る時に参ろう、気分の良か時だけ拝もうと、ゆうような事では、神に一心は届かん、せめて、いわゆる泉尾の先生が云われるような、これだけはといったようなものだけは、ひとつ、どれもこれもとゆう訳にはいきませんけれども、これだけは、頂きぬかせて頂いておる、これは私の信条だと、信心の信条がそのようにして出来る。
その事だけには、言わば命をかける、その事だけには辛抱しぬかせてもらう、といったようなものがね、どうでも必要である事を、こゝでも説いておられます。
心に眞が無ければ神に虚言を言うも同然、私はそうゆう、今、私が申しましたような、一心を立てるとゆう事、そうゆうような事が私は眞だと、こう思うですねえ。
一心を立てぬく、貫く、これだけは神様の前に、眞のかぎりを尽くさせてもらう、あそこも御無礼、こゝも足りないけれども、こゝだけは、これだけはと、いったようなものがね、色々それぞれに、工夫されなければいけんのじゃないでしょうか。
拝むにも、大声を出したり、節をつけたりせんでも、人にものを云う通りに拝め、と、形式、形だけがどんなに出来ましても、確かに眞が無かったら、それは形だけで、点数をかせぐ事は出来ない、矢張りそこの内容にあるところの、眞心である。
云うなら、小さい音でも神には聞こえると、さゝやかな事でも、神様が受けて下さるようなもの、それを例えば今日は、これだけはとゆう一心だと思う。
皆さん、そうゆう これだけはとゆうような一心が、どのような風に表されているでしょうか、どんな事があっても、這うてでもお参りだけは欠がさん、もう朝参りは有難いのだけれど、朝参りが出来ん時には、晝でも晩でもお参りをする、これだけはと、一心をそこにかたむけておられる方が、あると致しますならば、それは小さな声であっても、さゝやかな事であっても、神様に交うと思うですねえ。 お参りが出来ない、そうゆう時にはせめて、お初穂だけでも、お参りさせて頂いた事の、例えば三日お参りが出来なかったら三日分のお初穂が、せめてこれだけでもと、貫かれるような生き方これなんかも、やっぱり、ひとつの工夫ですねえ。
そうゆういき方は、合楽では、それをなさっておられる方達が随分あります。
何日間の御無礼しました、と 本当に御無礼してしまう、それではいけない、成程、御無礼ではあっても、一心だけはさゝやかながら、お賽銭ならお賽銭、お初穂ならお初穂、で交うておる、そうゆう私は一心、それはさゝやかな事であっても、神様に通じる。
まあ色々ありましょうねえ、そこの辺の工夫は、そんならこれを形の上の修行に、致しましてもそうです、神様の前に、大祓一巻なら一巻、十巻均なら十巻、奉上させて頂くと決めたら、これはもうどんな事があっても、それを貫かせてもらう、本当にさゝやかな事ですけれども、そこから神様と交うものが生れてくる。
積もり積もって、その一心、又は眞がですねえ、積もり積もって良い信心を形成してゆく、それがそんなら、さゝやかな事からです一つなら一つの事から、五になり十になり、そして本当なものに、段々なっていく稽古をさせて頂きます。
只、お参りはしとるけれども、その辺のところがね、漠然としておる、そうゆうのが何十年信心を続けても、徳にもならなければ、信心の本当の妙賀に、触れるとゆう事も出来ない。
神様に、本当の意味に於いて届きよらん、やっぱ工夫しなければいけん、そこで私は、その事をね、願わにゃいかん、どんな事があっても大祓一巻だけは、晩やすませて頂く前に、神様の前にお供えさせて頂きますと、どうぞその事をお許し下さい、その事をよろしくお願い致しますと、願わにゃいけん。
毎日、日参と思うとりますけれども、仲々凡夫の事で、出来ない場合がございます、そうゆう時には、せめてお賽銭と、お初穂だけは、お供えさせて頂きますと、そこのところを願っていかにゃいけん。 そこからね、いわゆる願わせて頂く、それを聞き届けて下さろうとする、働きが生れてくる。
やゝもすると、それが消えそうにもあるところを、神様は、それを受けて下さろうとする働きが、そこに感じられる。
そうゆう体験が生れてくる。 昨日、日田の綾部さんがお参りして見えてから、話しておられるのに、最近お参りさせて頂くようになって、一生懸命、天津祝詞、大祓拝詞、天地書附と、一生懸命稽古しておられる、毎晩それを、必ず奉仕させてもらう。
一番上の長女が、今頃は私が神様を拝ませてもらいよりますと、御自分の部屋の横に、神様の間がとってあります、私のべっどに来てから、長女がいつも、長うなって寝とりますと、「どうした事じゃろうか」と思いよりましたら、「お母さんがね、天津祝詞やら、大祓やら上げよるのをず―っと、聞かしてもらいよったら、ウトウトしながら聞きよると、ほんに気持のよか」と云うてから、「だから娘の為にでん上げんならんごとなつた」と云うておられます。
先日、ある事で大変こみいった問題やら、色々ありまして遅かったから、今日は神さま、天津祝詞と拝詞だけで、お許し下さいと云うてから、天津祝詞、拝詞だけで止めよったら、ベッドに寝ておる長女が「アラあんた今日は、ごまかしよるじゃないの」と云うた、と、だから又あらためて、本当に、神様にお願いしておる事であるから、ほんなこつと云うてから、その長女の方は、別にお参りして見えませんけれども、矢張り神様がそのようにして、使って下さるのじゃないでしょうか。
これはもう必ず、どんな事があっても、天津祝詞、大祓拝詞、天地書附だけは、御神前にお供えさせて頂きますと決めて、それを続けさせて頂いておる。
それを続けさせて頂くとゆう事がです、周囲にそのような感化が起ってくる、娘さんがお参りはしないけれども、お母さんのベッドで横になってから、お母さんが一生懸命大祓を上げよると、仲々気分のえゝもんだと、こう云う。
だから娘の為にでも上げにゃいかんたいと、迫力が出てくる、ところが、たまたま先日それを、もう遅くもあるし、早くやすませて頂こうとゆう気持で、今日は神さま、済みませんけれども、天津祝詞と拝詞だけで、こらえて下さいと云うたら、ベッドの方から起きて、「今日はお母さんごまかしたね」と云うてから、ほんなこつと云うて、改めて又、奉上させて頂きましたと、こう云うておられます。 ですからね、そうゆうね、例えば本当に雨が降るから、風が吹くから、えらいと思うてはならんとゆうところに、信心の、私は妙と云うか、妙というのはね、そうゆう神様の素晴らしい働きに触れられる事が、妙になってくる。
神様ちや、不思議なお方だなあ、私位な者のさゝやかな、こうゆう修行でも神様は、受けておって下さるんだなと分かる。
そこで たったそれだけの修行よりも、そんなら、もちっと念の入った修行に移っていったら、もっと有難い妙賀が受けられるであろう、いわゆる信心生活、生活そのものが、信心にならせて頂くいき方になったら、よりもっと、有難い事になるだろうと、信心の励みも楽しみも、そこから、私は生れてくると思うです。
それを、どうでしょう、いかに華やかな パ―ッと桜の花のような信心をさせて頂いても、それこそ、パ―ッと散ってしまうようないき方の、信心であったら、ようやく神様に交おうとしておるものが、交合わんなりに、途中でいつも切れぎれに、こまごまになってしまう。
成程、おかげは受けましょう、けれどもこゝにあるように、その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃと仰せられる、その身に徳を受ける修行がね、私は大切だと、こう思うのです。
先日ある方が、大体、日参をされます、けれども出来ない時にはお初穂、お賽銭だけを奉って、お参りしたかわりに、次のお参りの時に、一緒にお供えなさる。
ところが財布の中が矢張り、空になっているような場合もある。ところが先生、この一心を立てさせて頂いとりますとね、例えばね例えばね、お菜を買う金は不自由を致しましても、お初穂だけは必ずどこからか、お繰り合わせを頂きますと云うておる。
だから、たったさゝやかな百円なら、百円のお初穂だけれども、神様がこのように間違いなく、受けて下さってあるんだなあと分かると、云うておられます。
私は、信心の妙とはそれだと思う、だから、百円が千円とゆうように、例えばそんなら、金額の上で云うても、させて頂ける事になったら、それこそ何の金には困るとゆう事が、例えばあつても、お初穂だけは神様が、きちっと千円づつ用意して下さるなら、こんな有難い事はない。
それが徳なのだ、だからその事がね、そうありたいと願わにゃいかんです、だからそうさせて頂く、そうゆう修行させてもらうとゆう願い、お取り次を頂かにゃいかん、そこからお取り次の働き、微妙な迄のお取り次の働きとゆうものが、生れてくる。
こうやって、お参りしよるばってんか、神様が受け御座るやら、受け御座らんやら分らんごたる信心じゃ、駄目なんだ、受け御座る事が、はっきり分からしてもらうところに、信心の喜びが約束される、頂かれる。
しかもその喜びは、愈大きなものにしてもらう、本当なものにならして頂くとするところにです、いわゆる信心の精進、同時にです 楽しみ、喜びとゆうものが伴うて参ります。
ですから、どんなに、よか信心しよるごとありましても、そこんところがね、こまぎれになったんでは、例えばその辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃと、身に徳を受ける修行が、おかげを頂く為の修行、おかげを頂く為の信心は、それで良いに致しましても、身に徳を受ける修行には、ならないとゆう事。
折角ですから、身に徳を受ける修行、それをそんなら初めから、例えば私共が、金光様の真似をさせて頂きたい、三代金光様の、御神勤ぶりとゆうものを、知っておりますから、もう取次者の鏡だ、だから、あゝありたいと、難しい事を一辺に願わんでもです、せめて、金光様が四時の御祈念に、必ず、それこそ降っても照っても、どんな事があっても、これだけは七十年間続けぬいておられた。
まあだ、その事だけじゃない、他の事も沢山あるけれども、せめて、その事だけなりとも、と、まあ私が一心発起致しましてね、その事が続けられていくとゆうところにです、最近、私が感じる、あの三時半から四時迄の喜び、といったようなものは、もう今迄かって味おうた事のない喜び、楽しみ、もうその楽しみで、言わば起きてこれるとゆうおかげを頂いておる。
だから、それがもっと本当なものに、成長していくおかげを頂かねばいけん、と、私も思うておりますけれどもね、仲々出来ません 今日は皆さん、どうでもひとつ、雨が降るから、風が吹くから、と、神参りをするにと云うておられる事は、これは信心をするにとゆう事だと思います。 神参りとゆう事は信心、だから、お参りをする時の雨風とゆうだけではない。
私共が今申しますように、神に虚言を云うような 信心であったり、眞のない信心であったり、形だけにとらわれた信心であったりするような事では、神に虚言を云うも同じ事であるから、例えば御祈念なら御祈念でも、人にものを云うように、いわゆる形式じゃないような信心が、身についてくる。
そうゆう 例えばさゝやかながらでも、例えば夜に大祓一巻、とか十巻とか、上げさせて頂くと、心に決めさせてもらい、神様にお願いさせて頂いたら、どのような事があっても、それをやりぬかせて頂こうと、ゆう願いを立てなければいかん。
その願いが立てられたところに、綾部さんの例じゃないですけれどね、そうゆう信心の姿勢と云うか、姿がね、周囲に及ぼす働きとゆうものは、これはもう眼に見えない所に潤うていきよる、信心のない娘にまで、お母さんの御祈念の声を聞きよるのが、楽しゅうなってくる、とゆうようなものが生れてきている。
これだけは、うちのお父さんは絶対なもの、これだけは、うちのお母さんは見上げたもんだと、例えば信心のない子供達でも、それを認めてくれるとゆう事は、期せずして表れてくるおかげ、そうゆう例えば一心を立て、貫かせて頂くとゆう事がです、次に、体験になって生れてくる。
それは例えば、お初穂ならお初穂の事でも、こうと決めたら、させて頂く、他の事には不自由しておっても、これだけのお初穂だけはとゆうものは、どこの端からか、必ず準備して下さる、と例えば確信が出来る、信念が出来てくる。
それがね、そんなら、もっと素晴らしい、分かりやすく金額で云うと、そんなら、百円に決めずに、いっちょ五百円にしようと決めたら、五百円だけはどんな事があっても、神様が準備して下さる体験を、頂かせて頂くようになったら、どうゆう事になるでしょうかそれこそ、もう喜びの妙は、もうこれだと思わせてもらう。
しかもその賀びの妙が、段々育っていく、大きくなっていく、今日はもう疲れとりますから、すみませんけれども、天津祝詞、拝詞だけで御無礼しますと、云うておっても、ちゃんと次には、神様のお働きがある。
子供がそれ聞いとってから、アラ、お母さん今日はごまかしよるねと、もうそれこそ、ハッとするように気付かせて頂けれる、そうゆう働き、してみると、私のこのさゝやかな修行でも、神様が受けて御座るなあと、ゆう事が感じられて、そんなら、例えば大祓一巻よりも、大祓十巻受けて下さるなら、もっと有難い事になろうと、ゆう意欲もです、又、出ろうとゆうものです。 どうぞ。